■ 出石城(兵庫県)2006.11.24

私の結構好きな観光地に有る出石城です。
ここに行くと必ずお蕎麦を食べますw

山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築いた。此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。

一旦山名祐豊は城を失ったが、今井宗久の仲介によって領地に復帰した。1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移した。しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡した。

有子山城は、しばらく城代の時代が続いたが、1585年(天正13)から前野長康、1595年(文禄4)から小出吉政が城主を務めた。関ヶ原の戦いにおいて、小出氏は家名存続のため、吉政が西軍、弟・秀家は東軍に分かれて戦ったが、秀家の功績により、吉政の西軍への加担の責任は問われず、出石の領土は安堵された。

1604年(慶長9)、吉英により有子山城が廃され、有子山山麓に出石城が築城された。平地に堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれた。このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成された。なお、一国一城令により出石城が但馬国唯一の城郭となっている。

江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。代わって松平(藤井)忠周が入城。1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となった。江戸末期には仙石騒動がおこっている。

明治時代になり、廃城令で出石城も取り壊されたが、辰鼓櫓、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、観光地となっている。


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