伏見城は1592年に豊臣秀吉が伏見の指月に隠居の城として 築城を命じたが、文禄四年の大地震で倒壊してしまい、新に 木幡山に縄張りをし、秀吉政権下の中心地となっていった。
秀吉の死後、伏見に入ったのは徳川家康であり、家康が 上杉征伐の途につくと、伏見城の留守居に鳥居元忠を置いた。
この機に挙兵した西軍は、7月18日に毛利輝元の名で伏見城 に開城を要求したが、元忠がこれを拒否。翌日に攻城戦がはじ まった。守備兵は元忠以下1800名。西軍は宇喜多秀家、 小早川秀秋、毛利秀元など総勢4万。この中には家康側につく 為に伏見城へ入城しようとして拒絶された島津義弘もいた。 兵力差は圧倒的であるので短期間で、決着がつくと思われて いたが、秀吉が残した堅城であり、家康が死守を命じていた 為に、城内の守備兵は玉砕の覚悟が出来ている。頑強な抵抗に あい、攻城戦は長引く事になった。業を煮やした三成が督戦 に駆けつけ、総攻撃開始から14日後の8月1日に陥落した。
※40000vs1800。これで2週間もかかるんだから 伏見城は大変な堅城だったんでしょうね。城攻めには攻め手は 何倍もの軍勢が必用と言うことですが。 しかし、幾らなんでもこの西軍のやる気の無さ。。。 三成が督戦に来て、イヤミをたらたらと言ったんでしょうね。 イヤミを聞いてやる気を出したかどうかは、わかりませんけど この後直ぐに落城をしたのですから、三成の督戦が功を奏した と言う事になるのでしょうけど。。。
この時の軍勢の大半が関ヶ原の本戦に参戦している武将です。 しかし、関ヶ原で本気で戦ったのは主力では宇喜多秀家のみ。 小早川は裏切り、毛利は弁当を食べていた。島津は最後まで 傍観すると言う形です。もしかすると、伏見城の攻撃の時も 秀元は弁当を食べていて、秀秋も殆どやる気無しで適当に手を 抜いていたのかも知れませんね。
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