■ 田丸城(三重県)2007.10.28

伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、1342年(康永元年)、足利尊氏によって落城する。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養嗣子となった織田信雄の居城として1575年(天正3年)に改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わるが、5年後に火災で天守を焼失。織田信雄は松ヶ島城へと移った。

その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏と主を移すが、最終的に1619年(元和5年)、徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。徳川頼宣は、遠江久野城城主であった付家老久野丹波守宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領6万石を領させた。久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後八代続き、明治維新に至る。また、大岡忠相の山田奉行時代は天領と田丸領の争いの舞台のひとつとなった。

明治維新に伴い田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空掘などの遺構は今も整備されて残されており、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども再度移築され、往時の面影を偲ばせる。 田丸城はその成り立ちから、織豊系の近世城郭と南北朝時代の中世城郭の遺構を併せ持つ興味深い城である。


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