■ 小田原城(神奈川県)2006.11.24

後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰め城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。第3代北条氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃を退け、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇った。後北条氏の時代に、小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構え(これは後の豊臣氏大坂城の惣構えよりも広大である)をもつ、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張された。

現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。関東にしては珍しく、主要部が全て石垣で固められた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)から始められた大改修の後のことである。2代藩主忠隣の時代、政争に破れ改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。

その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日の局の血を引く稲葉氏、そして御家再興がなった大久保氏が返り咲いた。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。なお、大名となった支藩(分家)に荻野山中藩・陣屋(現在の神奈川県厚木市)がある。

小田原城址は小田原城址公園として公園化され、復興天守(鉄筋コンクリート製)が昭和35年(1960年)に建築されている。天守の頂上からは太平洋や笠懸山の石垣山一夜城がよく見える。現在では、天守の復興を手始めに常磐木門、銅門、そして現在、馬出門の復元作業をおこなっている。また、小田原城は過去に大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により石垣が崩壊したのをはじめとして、何度も地震に見舞われている。


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